アドレス日本一周 west[172]
投稿日:2013年5月30日
「外湯めぐり」がいい
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但馬海岸の佐津、さらに日本海の海岸線に沿った道を走り、竹野を通り、円山川の河口まで行く。この道はかつての有料の但馬海岸道路。アドレスを走らせながら眺める日本海の海岸線の美しさといったらなく、思わず「おー!」と、感嘆の声を上げてしまう、但馬海岸の美しさは山陰海岸随一といってもいいほど。山々は断崖となって海に落ち込み、海の色はあくまでも青い。
しかし見た目には美しい但馬海岸も、住む人たちにとっては決して楽な土地ではないようだ。海岸近くの猫の額よりももっと狭いような畑での野菜づくりは、厳しい自然に立ち向かって懸命に生きる日本人の姿を見せつけているかのようだ。
円山川河口の津居山漁港に立ち寄り、円山川沿いに走り、山陰の名湯の城崎温泉へ。ここではJR山陰本線の城崎温泉駅前の「さとの湯」(入浴料800円)に入った。1階は大浴場、2階は露天風呂。1階、2階とも入浴客はぼく1人。貸切湯状態で湯につかった。2階にはそのほかにサウナとハマムがある。ハマムといえばイスラム圏の公衆浴場ではないか。なつかしの蒸気湯。「シルクロード横断」の途中、北欧の女性たちと一緒に入ったトルコのハマムがなつかしく思い出されるのだった。
今回は「さとの湯」に入ったが、城崎温泉では何といっても「外湯めぐり」がいい。
外湯というのは全部で6つある共同浴場のこと。城崎温泉には内風呂のない旅館がけっこうある。宿で泊まり、これらの外湯に入るので、宿の湯は必要ない。これは日本の温泉地の古くからのスタイルだ。
城崎温泉には「外湯めぐり」の案内板があちこちに立っている。それには城崎温泉の由来と6湯の紹介が次のように書かれている。
城崎温泉の由来
城崎温泉の歴史は古く、欽明天皇(629年ー641年)のころ、傷ついたコウノトリが湯あみをしてたところから発見され、道智上人によって開かれたといわれています。以来「但馬の湯」として、古今和歌集や増鏡にも語り伝えられ、多くの人たちに親しまれてきました。歴史の古い温泉地には、必ずといってよいほど発見伝説が語り継がれております。城崎温泉の外湯にもそれぞれのいわれがありますので紹介しましょう。
1、鴻の湯(幸せを招く湯)
外湯の中でも、もっとも古くから開けた湯です。欽明天皇のころ、コウノトリが足の傷をいやしたことから発見されたと伝えられ、このいわれにもとづいて名付けられました。夫婦円満、不老長寿のご利益があるといわれています。
2、まんだら湯(一生一願の湯)
養老元年(717年)、温泉寺の開祖、道智上人の曼荼羅一千日の祈願によって湧き出したとされています。その後、800年を経たころ、にわかに沸きあがって熱湯になりましたが、折りよく来あわせた京都の僧、日真上人が曼荼羅を書いて泉底に沈めるという修法の結果、数日にして適温に戻ったといわれています。この由来を書いた碑がまんだら湯の前庭にあります。商売繁盛、五穀豊穣のご利益があるといわれています。
3、御所の湯(美人の湯)
南北朝の歴史物語「増鏡」に文永4年(1222年)、後堀川天皇の姉の安嘉門院が入湯されたという記事があり、「御所の湯」の名はこれに由来します。江戸時代、御所の湯の西隣に陣屋が置かれ、「殿の湯」または「鍵の湯」と呼ばれた湯がありましたが、明治になって、御所の湯と一つにしたものです。現在の建物は、平成17年7月に移転したものです。火伏防災、良縁成就のご利益があるといわれています。
4、一の湯(開運・招福の湯)
江戸時代の中ごろ、温泉医学の創始者、後藤良山の高弟であった香川修徳が、その著「一本道薬選」の中で、当時新湯といっていたこの湯を天下一と推奨したことから「一の湯」と名付けられました。大名も駕篭でこの湯に通ったそうです。一の湯の小庭にある「海内第一泉」の碑は近代温泉学の権威藤浪剛一博士の書によるものです。合格祈願、交通安全のご利益があるといわれています。
5、柳湯(子授けの湯)
中国の名勝西湖から移植した柳の木の下から湧き出したということから、「柳湯」と名付けられました。外傷や腫物に著しい効果があるといわれています。柳湯の守護神が鬼子母神であることから、子授安産のご利益があるといわれています。
6、地蔵湯(衆生救いの湯)
江戸時代、村民の多くがこの湯を利用し、里人の湯として親しまれていました。「地蔵湯」命名の由来は、泉源から地蔵尊が出たことによるもので、以来庭内に地蔵尊をまつっています。家内安全、水子供養のご利益があるといわれています。
このような城崎温泉の外湯6湯には何度か入っているが、一番忘れられないのは鈍行乗り継ぎの「温泉めぐり日本一周」(1994年)で入ったときだ。そのときのことは『鈍行乗り継ぎ湯けむり紀行』(1995年JTB刊)で書いているので紹介しよう。
城崎温泉の外湯めぐり
山陰本線の京都発9時38分の園部行きに乗ると、次の丹波口駅で行き違い電車の待ち合わせになる。山陰本線は、最初から単線。このローカル色が濃くて、不便なところが、山陰本線の大きな魅力になっている。
「京都→園部」間は電化区間で、嵯峨野線の愛称がついているが、園部から先はジーゼルになる。福知山で乗り換え、京都府から兵庫県に入る。豊岡で乗り換え、14時18分、城崎着。山陰本線の沿線では最大の温泉地、城崎温泉に行く。1400年の歴史を誇る日本でも屈指の名湯だ。駅から5分も歩けば、共同浴場の「地蔵湯」(入浴料300円)に着く。城崎温泉には全部で6つの共同浴場(入浴料はどこも300円)があるが「地蔵湯」を最初として、それら6湯を“はしご湯”してまわろうと思うのだ。
城崎温泉では、昔から、「外湯めぐり」が盛んにおこなわれていた。温泉宿(内湯を持たない宿が多かったし、今でもそのような宿が何軒もある。そのため温泉街は、外湯を中心にして発展した)に泊まり、共同浴場の湯にひとつずつ入っていくのが外湯めぐりである。今でもその影響は色濃く残り、宿の浴衣を着て共同浴場にやってくる人たちの姿をよく見かける。
これは前にもふれたことだが、ぼくはこの共同浴場めぐりが大好きなのだ。温泉宿に泊まっても、共同浴場のあるような温泉地だと、宿の湯に入ったあとで共同浴場の湯に入りにいく。共同浴場が何湯もあるような温泉地だと、全湯に入ってみたくなるのである。
城崎温泉の外湯めぐりをするとはいったものの、ぼくは「地蔵湯」で、かなり緊張していた。というのは、伊豆半島の林道をバイクで走行中に吹っ飛び、右肩の鎖骨を折った。骨折からまだ17日目で、病院の先生からは温泉に入ってもいいといった許可をもらっていないし、痛みも、まだかなりのもの。脱衣所では、右手を使えないので、左手一本で服を脱ぎ、肩を固定している“鎖骨バンド”をおそるおそるはずした。そして浴室に入り、大浴場の湯につかった。
ところが、衝撃的な痛み。
ガーンと、ハンマーで頭を一撃されたようなものだ。「ギャー!」と、叫び声を上げるところだった。
湯船から上がると、洗い場のかたすみで、しばらくうずくまってしまった。
ところで、栃木県の川俣温泉では、地元の猟師さんと一緒に湯に入ったことがある。そのときの猟師さんの話は、今でも忘れられない。
「わしら猟師は、山で怪我をするとすぐに、温泉に入る。そうすると、傷の治りかたが全然、違うのだよ」
ぼくは実際に、そのような経験をしたことがある。
帝釈山脈の安ヶ森林道をバイクで走行中に転倒し、膝をかなり切ったときのことである。峠を下り、湯西川温泉の共同浴場のコンコンと湧き出ている湯で傷口をきれいに洗い、我慢して湯につかったが、そのあとの傷の治り具合は信じられないくらいに早かった。温泉の湯を使っての応急処置がよかったのだ。
また、那須連峰の大川林道をバイクで走行中にも、やはり転倒し、歩けなくなるくらいに足を強打した。近くの板室温泉の湯につかり、腫れ上がった足をさすると、なんとか歩けるようになったのだ。温泉には、このようなミラクル的な速効性もある。
それともうひとつ。甲州各地にある“信玄の隠し湯”を代表として、日本各地には、戦国の武将たちが傷ついた将兵を湯治させたという伝説の温泉がいくつもある。ぼくは“武将たちの隠し湯”にも興味をもって入っている。
このような猟師さんの話、自分自身の体験、さらには“隠し湯伝説”あたりをよりどころとして、ちょうどいい機会だからと、自分の体を実験台にして温泉の効能を確かめてやろう、骨折した右肩をはじめとして、打撲した右腰、右膝、右足を治してやろうと、今回、旅立ったのだ。しかし、あまりの痛みに「地蔵湯」でうずくまっていると、弱気になってしまった。
「あー、やっぱり、無理だったのかなあ…」
嵐のような痛みが過ぎ去ると、鉛のように重い体をむりやり引きずって、次の「柳湯」に行く。円山川の支流沿いに城崎温泉の温泉街は細長く延びているが、その中に点々と共同浴場があり、「柳湯」でも激痛に打ちのめされて湯につかった。それでも負けずに外湯めぐりをつづけた。
すると不思議なことに、「一の湯」、「御所の湯」、「まんだら湯」と共同浴場にひとつ入るごとに、ハンマーで殴られるような痛みはすこしずつ弱まり、湯の中で肩や腰、膝、足をさすれるような余裕が生まれてきた。最後の「鴻の湯」では、一番最初の「地蔵湯」のときとは比べものにならないくらいに痛みが薄らいでいた。